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八坂神社は祇園祭が行われる現在の町の中心部からは遠く離れた地に鎮座していますが、それはなぜでしょうか。
古代の石井は第一に将門の本拠地であり、将門縁の馬牧の中心であり、宿駅でした。
この当時は上岩井(現在の国王神社周辺)を中心に栄えていました。
現在の中心となっている岩井の町方はその起源を鎌倉時代前期にさかのぼりますが、三町、すなわち本町・仲町・新町は上岩井に近い本町から造成され次第に南下してゆき、新町の造成は延宝(1673~81)時代のことでした。
新町が造成されたころ、岩井の地には多くの上方商人が訪れ、土着するとともに町は豊かに成長しました。
商人たちは京都八坂神社の祭礼の華やかさを岩井にももたらそうと八坂神社を勧請する努力をし、現在の八坂神社となったのではないかとされています。
八坂神社となる以前は香取神社であったという話もありますが、前身となる神社が鎮座しており後に八坂神社となったため、現在の町方とは離れているのではないかという説は根拠として説得力があります。
いずれにせよ八坂神社創建当時は現在の町方は存在しておらず、町方が生まれた鎌倉時代前期から新町が造成された五百年の間に八坂神社となったというのが有力なようです。
右の地図は将門の時代(=八坂神社創建時)の岩井の地形予想図。
河川や沼地が巡り、陸地が半島のように分かれていたようです。
それでは、八坂神社及びその前身となった神社はなぜこの地に鎮座したのでしょうか。
かつて神社の西側(現在の長須地区)方面には鵠戸沼(長須沼)という大きな湖をはじめ、河川湖沼が広がっていました。
下総旧事孝より「源を寺久、上出島に発し、東は鵠戸,長谷、西は若林、長須等の村々に回環した一里、横十横ばかりの小湖也。」とありますように鵠戸沼は流れてゆき、最後は利根川へと流れ落ちました。
神社創建の頃、長州村は平将門が牧司を兼ねていたという長州馬牧として栄えました。
馬の調教をしていた富士見の馬場は現在の市街地方面にあるため、八坂神社付近は馬の往来が盛んであったと思われます。
長須から町方方面を見ると、湖の向こうに巨木の繁茂した小高い丘が浮かび、水面に影を落としていたといいます。
その神秘的な丘は神域として相応しく、現在の八坂神社の社地となったと伝わります。
鵠戸沼を船で渡り神社を参拝した記録や、牛頭天王は眺望絶佳な丘であるといった話も伝わります。
かつての社地は現在よりも四反以上広かったとされ上述したように巨樹が立ち並び、日中も猶暗い有様であったといいいます。
安政3(1857)年9月の台風では境内の檜や杉の木が37本も吹き折れ、倒れたために処分したと記録が残り、その様子を窺うことが出来ます。
鵠戸沼は昭和30年に干拓工事が完全終了し、現在の岩井の風景は記録と様変わりをいたしました。