八坂神社の祇園祭は「岩井の夏祭り」として地域に親しまれ、七月の第四金曜日、土曜日二日間は市内商店街を一㎞以上の歩行者天国として大勢の人で賑わいます。
古くから農村として栄えた岩井町(石井郷)では農作物が稔りに向かう旧6月に例大祭が行われ、五穀の豊穣と疫病除け、厄除けを中心とした神霊信仰として成熟してきました。
祭礼は中世以来次第に形式が整えられてきたといいます(岩井の町方は鎌倉前期に、新町は江戸前期に造成されました)。
最も古い記録は享保年間に残された資料で、盛大な御祭が少なくとも三百年以上も続いていることが明らかになっています。
第三土曜日には八坂神社にて御祭を行ったあとで御神輿に神霊を移し、町内を御神幸いたします。
その後御神輿は町内御仮屋に納められ、七日間町内に鎮まります。
普段は神社に御鎮まりいただきご参拝される神様が、御祭の期間は町にお越しになるということに大きな意味があるのです。
歩行者天国初日の第四金曜日には祭礼當屋・八坂神社氏子総代役員が御仮屋御神輿前に集まり例大祭を執り行い致します。
御神輿の渡御は二日目となります。五穀の豊穣を祈り、また威勢のよい掛け声をもって御神輿をかつぎ、町内から疫病や厄を追い出します。
町内を渡御した後には八坂神社に還御し、神職の太鼓の音とともに氏子は神社を時計回りに三周してから御神体を神社にお戻しすることが昔からの伝統となっております。
なお神輿のかつぎ手は白丁を身にまといます。白丁は無位無官、神様のもとに皆が上下無く平等であるという精神を象徴します。
享保元年、元文時代、および嘉永6年に残された文書には、当時の祭礼の様子が残されていますので紹介いたします。
享保時代には十分祭礼の形式が整っていたようで、嘉永時代に金銭的負担の大きさから接待を減らすなどの縮小記録は見られますが、祭礼の主要な部分は変わることなく盛大に続いてきました。
かつての祭礼は村の名主が大きな力をもっていたようです。旧5月晦日に最初の祭礼が本殿で行われてから、旧6月24日に御神輿が本社入するまで祭礼が長期間にわたりました。
御仮屋は渡御より2週間前の7日に建てられます。
14日は「宮祓(みやなき)」といい氏子が朝風呂で身を浄め、持参した掃除用具で境内を清掃しました。その後村境に竹を立てて辻止めをし、村中が神域となります。
15日には神輿前にて夜中蝋燭3丁のみを明かりとして湯花(湯立)神事を執り行います。湯立は神前で湯を沸かし、煮えた湯笹の葉で周囲に振りまく神事です。
竹を立てて注連縄を張り、米一枡を供えます。神主のほか山伏と神子が執行し、真夜中にも関わらず見物人で溢れたようです。
御神輿の渡御には神馬を先頭に四人の鉾持ちや舞太夫が続き、山車もたくさん出ました。化粧をした町の子どもたちが華やかに着飾り山車を曳く後ろには大勢の仮装行列が繋がりました。
山車ではひょっとこが踊られます。
湯立神事、そして神輿の渡御は真夜中に蝋燭や提灯のわずかな明かりをたよりに斎行され、荘厳かつ神秘的な様相にあふれていました。
とくに御神輿は大きな掛け声だけが響く中暗闇に紛れ、遠くからゆらゆらと提灯が近づいてくるのを見ていると突然巨大に輝く御神輿がバッと現れる。恐怖とあまりの勇ましさに腰を抜かし、そして興奮したものだと古老は話します。
電気がなく、暗闇の中での祭礼は現代とは大きく異なる趣がありました。
また、神事として競馬・相撲・綱引き・競漕も行われました。競馬はとりわけ神事としても重視され、見物人も大いに盛り上がりました。
三町それぞれが馬を出して勝ちを競う形式で行われ、「勝馬を出した町が今後一年最も栄える」といういわれがありました。
そのため駿馬を探しに筑波まで歩いて出向いたり、馬の世話も町民総出で行ったという記録が残るなど、どれほど真剣に取り組んでいたのかが窺えます。
祭礼が近くなると町中を走る蹄の音で目を覚まし、表に出て馬の姿を見て御祭気分が掻き立てられました。
馬は裸馬ですが、騎手は毎年豪華で派手な半纏を新調して着込みます。絵柄は「牡丹に唐獅子」や「清正の虎退治」といった勇壮なものが好まれ、「目立つ」事にも町の威信をかけていたようです。
競馬は日清戦争、山車は大正中期の戦後恐慌を境に消滅してしまい、その様子を知る人もいなくなってしまいましたが、御祭の歴史として皆様に知っていただけると嬉しく思います。